高校生と武士道

イメージの言語化を図ります。

真実後の僕、真実前の僕

そんなに遠くない冬のこと。

 

僕はバスに揺られていた。おそらく部活の遠征かなにかで、自分が出もしない大会に遅刻して慌てて向かっていた、というようなものだったと思う。

 

休日だと言うのに乗客は少なかった。僕は珍しくイヤホンを外した。

静かでも、混雑しているところは煩いのだ。人々の日常や思惑が、その呼吸を介して僕の耳に入ってくる。そんな騒々しさが満員電車にはある。それをかき消すために僕はほとんど毎朝ナンバーガールを聞いていた。

しかしその日のバスにはそんな喧騒がなかった。静かな車内だった。

 

ふとバスが止まった。

僕の目の前を一人の乗客が通り過ぎる。バスの出口へ向かう。運転手の元で立ち止まる。

 

『障害者です。』

 

その声は僕の耳をつんざいた。大きな衝撃が僕を襲った。それは彼の異常な声の大きさと言葉のたどたどしさだけのせいではなかった。

 

彼はパスケースに入ったなにか証明書のようなものを運転手に見せ、運賃を支払わずに黙ってバスを降りて行った。

  

その後僕は、そこに人間の差があるということを不意に提示されたことに僕は驚いたのだ、ということに気付いた。

 

彼はいわゆる知的障害というかそういう類のものを患った人だと、僕は降車の際の一言で察した。しかしその一言がなければ、僕は彼が僕とは一線を画した存在であるとは気付かなかったのだ。

 

やたら独り言を言ったりキョロキョロしたり、椅子の上に立ったりする、いわゆる障害者の方が、『障害者です。』と言って降りることに僕は何も違和感を感じない。

それは妊婦さんや松葉杖をついている人に席を譲るのと同じ感覚だと思う。

 

しかし同じ空間を互いに苦痛なく共有していた集団の一人に、『僕だけはみなさんと違う存在です。』と宣言されると、これはなんだかおかしいなあということになる。それは障碍者の人たちへの哀れみや同情ではない。

 そんな気持ちを言語化できなかった。彼の前で僕は沈黙するしかなかった。

 

そして、思考が再開したのはニュースで相模原障害者施設無差別殺人事件を目の当たりにした時。

再び大きな衝撃が僕を襲った。

『障害者がいなくなればこの世界はもっと良くなる。僕は英雄である。』

 

そんな風に語る容疑者を僕は、気の触れたサイコパスだ、という風に一蹴することができなかった。むしろそんな思想にどこか共感してしまう弱い僕がいる、とすら感じた。

 

"普通"じゃない人と関係性を持つのは難しく、"普通"な共同体は普通じゃない人を排除する。

 

それを僕が実施しているのだとしたら、僕が語る僕のことは誰かへの暴力になっていたのである。僕が僕の日常を守るための言動が、同時に僕の日常から特定の人々を疎外し、人々を傷付けてきたのである。

 

僕は大きな衝撃を受けた。

僕は障害者を殺して英雄になった彼と根本を同じくしている。

 

受け止めるのに長い時間がかかった。

 

真実後の世界

「人それぞれだから」「多様性」といった言葉の氾濫に僕はいら立ちを抑えきれない。それらの言葉はもはや他者への理解への思考を断ち切るスイッチに過ぎない。無視と同義。

 

西田幾多郎のいうような、対立する二者が一つの共同体で均衡を保ち成立するような矛盾を孕んだ社会構造を目指すべく、真の異文化理解に努める人はどのくらいいるのだろうか。

 

「答えのある問題はない。どんな選択も間違いではない。」といった教えを受けた僕らはもはや正しさを求める努力をすることを諦めてしまった。めんどくさいから。

 

 代わりに僕らはネットで人を叩く。不倫を叩く。シャブを叩く。浮気と離婚を叩く。アイドルと事務所を叩く。学生のふざけた動画を叩く。

 

景色を対象化する大衆。

他者を対象化する大衆。

 

『人を殺して見たかった』と語る青年が起こした無差別殺人事件を見て、『かわいそうだ。』『ゆるせない』と言う僕。

 

心中未遂を起こして一人だけ助かった男性に対して『やるなら最後までやれ。』と罵声を浴びせる僕。

 

反日教育を進める国家は滅ぶべきだ、と特定の民族を否定する僕。

 

僕らは現実で見る他者・風景・世界をすら自分の外部に存在するものとして対象化する。好き勝手にものを言う。そして『意見の多様性』を盾に正当化する。

 

そうすると不思議と衝突は起きない。自分の都合のいい情報だけを受信し、それ以外は無視する。これも『多様性』の名の下に許容される。

 

故に僕らはリアルに飢える。

 

僕らはリアルを求める。

 

ヴァーチャルの世界に浸ってしまったがための喪失感、と行った簡単な理由じゃない。僕らはもはや会話することすらできない。

 

 

そして未来への諦観が僕を貫く

 

もうすぐ高校生活が終わりを告げ、大学生活やその先が現実味を帯びてくる。

僕の周りは着々と動き出し、『就職率』という要素が大学選びのキーポイントにもなっているようで。

 

僕はふと思う。

 

僕の未来に可能性なんてあるのか。

 

もはや誰とも意思の疎通が測れなくなってしまった現代日本で僕がすべきことは、大衆の倫理にどっぷりと浸かり、同調とマイノリティー疎外を続け、『多様性』という名の盾で身を守ること。

そして、突如として自分に向けられる大衆の理不尽な怒りを受け止めるゆとりを持つことぐらいだろう。もはや未然に防ぐとかそういう次元にはもうない。

 

3月の卒業式で、僕はおそらく答辞を読まなければならない。

人生の岐路に立ち、僕を貫く歴史を捉え、僕は何を語るべきか。僕らは未来をどう捉えるべきか。

分からない。

 

僕はいよいよ自分の生を肯定できなくなり始めている。恐ろしい。

セックスがしたくて仕方がない。

 

「生きるのがアホらしい。」と思えた夏。

どうも。

受験生の僕です。

タイトルから、こいつついに恥じらいとか捨てたんだなと 思った方。少し僕の話を聞いてください。真面目な話なのです。

まずは最近のことから。

 

夏が終わりました。

暑かった。

僕と言えば、なかなか勉強は手につかず、やたら本や音楽を聴く毎日を過ごし、挙句の果てに夏最後の模試で、2か月前とほぼ同じ点数を取るという失態を犯し、塾長から「夏はお楽しみでしたね。」と皮肉を言われる始末です。

 

たぶん人生で一番本を読んだ時期だったと思います。小説やら新書やらに加えて、詩にも手を出し始めて、今は萩原朔太郎を読んでいます。

 

そして、塾で仲の良い友達と、塾から抜け出して近くの公園で本を読みながらいろんなことを話しました。教育がどうとか、オウム真理教がどうとか、最近の若者は甘いとか。最終的には僕の心理カウンセリングまでしてもらいました。彼曰く僕は「自意識過剰」なんだそうで。

  

そういう日々を過ごしていたので、ある意味夏が終わるまでの時間を消化していた、ように思えます。自分が死刑執行を待つ受刑者のようだったと思えます。

アホらしかった。毎日がアホらしかった。

今も思います。

ああ。僕はなんてアホらしい日々をすごしているのだろう、と。

 

そんな僕が唯一望むこと 

僕がセックスを望むのは、決して性欲を満たしたいとか、周りに対して優越感を抱きたいとか、そういう理由じゃないんです。もっと切実な意味で、僕はセックスを切望しているんです。

 『セックスができたら、自分の人生が何か変わるんじゃないか。』って。そういう類の願望です。

 

少し補足します。これだと自分があたかも、留学やヒッチハイクフリーハグやらを『人生変わるから!』とやたら周りに勧める人みたいなので。 

 

長い時間の中で僕は変化し続けている。

身長が伸びた。

電車に乗れるようになった。

難しくて何を言っているかさっぱりだった本が、手に取るようにわかるようになった。

人の気持ちに敏感になった。

 

この夏もそうでした。

そういった変化は僕に新鮮な驚きと喜びを与えます。しかしその驚きは時間の流れとともに風化し、日常というものに取り込まれてしまいます。

 

そして最近は、僕を取り巻く変化にすら僕は慣れてしまったように感じます。淡々と過ぎる日常と、変わっていく僕と、それに自覚的な僕。そしてそれがこれからも続いていくという予測可能性。こうなってくると非日常というのは不可能なんじゃないかとまで思えます。

僕にとってはフリーハグも募金活動も留学も、日常に飲み込まれる要素の一つに過ぎないんです。感覚的にですが、そう思うのです。

 

そういう僕の日常に唯一風穴を開けてくれるであろう存在が、セックスだと僕は考えるのです。

 

僕はセックスについてだけ、自分との関係性が予測できないのです。自分が将来どんな人と特別な関係を構築する様になり、どの様な文脈で行為に至るのか。その時僕はどんなことを考えるのか。その時相手はどんなことを考えているのかを僕はどの様に考えるのか。そして、セックスを終えた僕がどの様に世界を見る様になるのか。

全く想像できない。

驚くほどにセックスは僕の予測可能性の外へ逸脱した存在だったのです。僕がセックスがいかなるものかを知っているのにも関わらず、なのです(僕が知っているそれと実際のそれとは全く別物なんだよ、と言われたらそれまでなのですが)。

 

だから、そんな非日常を僕は誰よりも求めているのです。

話せば話すほど、逆に相手のことが分からなくなっていく様な、そんな暗中模索を迫られる人間関係から這いずり出し、

頭の先からつま先まで相手のことを理解しようとする意志の衝突に至った時、僕は初めて生を実感できるのだと想像します。

 

僕は高校時代、(セックスを除いて)たくさんのことに打ち込んできた方だと思います。部活やら生徒会やら、社会活動やら、いろいろやりました。確かにそれらは僕を熱くさせ、かけがえのない感動を引き起こしました。

 しかしその時にも、僕はどこか冷めきっている僕を発見するのです。そうじゃない、僕が本当に望んでいることはそういうことじゃない、と。

 

 僕が本当に望んでいたのは、早いスマッシュを打つことでも、生徒と生徒会の距離を縮めることでも、ましてや若者の政治的関心を高めることでもなく、

ただ単純に誰かを理解し、誰かに理解されたいということなんじゃないか。

 そういう結論に至りました。今になって、どうやら僕が非日常を求める方向性が間違っていた様です。

 

過去のことはさておき、つまり今の僕にとってセックスを求めることは、生きることを切実に求めることと同義なのです。

日常から僕を解放し、この世に他に存在しないほどの生の実感を僕に与える、そんなセックスを僕は希求する。

 

こんなのは童貞が作り上げた虚妄に過ぎないだろうか。

 

ただ、僕はセックスがしたくてたまらなかった。

俺のお父さんはネトウヨだけど、俺はネトウヨじゃねえ。

小学生の僕に日本赤軍のリンチの話をする父親

 

僕のお父さんは、千葉県の隅っこの鍛冶屋に生まれました。

 
そのまま育って、特に上京もせずに家から近いとある大学に就職しました。
 
そして僕と他に2人の子を作り、養っています。
 
 
 
そして僕のお父さんはネトウヨです。
 
 
気付いたのは中学三年生の頃。
 
僕が2ちゃんのまとめを読みだした春ぐらいに、政治板で見る内容と父親のしゃべることが似てるなあと感じました。
 
 
決まり手はとある日の夜に父親の放った『日本も核ぐらいもつべきだよね。』の一言。
 
 
あれ。なんだかこれはおかしいぞ。
 
 
そういや昔からよど号ハイジャックの話とか、東大日大全共闘の話とか、クソほど聞かされてたなあと思い出しながら、『これはネトウヨの意見なのか…』という実感を得ました。
 
 
 

そして僕にもネトウヨだった時期がありました。

 

僕は一時期、というか結構長い間ネトウヨでした。

 
 
2ちゃんに書いてある政治のニュースは、韓国やら日教組やらの明確な敵を共有しているからなのか、ものすごく面白かったのです。
 
『ナマポを不正受給するチョンは全員くたばれ。』
 
とか平然と言っていました。
 
 
それに加えて、父親も僕の意見に同調するので、僕は間違ってないんだ、という確証が得られました。
 
 
当時の都知事選や衆院選(?)の時には、一緒になって田母神俊雄と次世代の党を応援する、なんてこともありました。
 
 
そんなわけで、いろんなことが僕を助長して僕をネトウヨたらしめていたのです。
 
 

ネトウヨからの脱却

 
僕がネトウヨから脱却した要因としては、やはり加入していたNPOでの体験が大きかったです。
 
高校2年生の僕は初めて自分の足と自分の目を使って、政治を見ることに成功しました。
 
 
そこで僕はやっと『政治は意見の衝突と融合なのだ。』ということを理解しました。
 
 
『対話による国際平和なんて無理だろ。早く憲法改正してくれ!護憲派の人たちなんて頭おかしいやつばっかりだ!』と思っていた僕が、たくさんの人との交流を重ねていくうちに、自分の世界の狭さを実感するようになりました。
 
 
政治を勉強するのに中立性なんていらない
 
 
決して保守的な思想が悪いわけでも、急進的な思想が悪いわけでもなくて、悪いのは『相手のことなんて理解できるはずがない』と拒絶することのように思われます。
 
 
そして僕の経験から言えることは『過激な思想を教育されたからといって、それに染まるわけじゃない』ということ。
 
大事なことは『いろんな思想にぶつかっていく体験を多くする』ことです。
 
 
最近『学校教育での政治的中立が〜』とか言われますが、僕ほどの感受性ビンビン系高校生ですら、最終的に自分の考えのもとにしっかり立つことができてるわけです。
 
 
だから、教え方の偏りを気にするぐらいだったら、極端でもいいから様々な視点から見た意見を教室の外から学べるような、そんなシステムが欲しいなあと思います。

"募金"大っ嫌い!!

先日本当にムカつくことがあったので、ここにそれをぶちまけさせてもらいます。。



僕がとある朝学校へ行こうと最寄りの駅に行った時のこと。



改札前のものすごく人通りが多い場所ですごいたくさんの中学生が、熊本の震災の募金活動をしていました。



人数の多さと何人かの先生の姿からみて、学校の活動の一環として、一学年の生徒が全員先生に連れられて活動している、といった感じでした。



変声期前のキンキン声で放たれる
『熊本震災の復興の募金をおねがいしまーす!!』
の言葉が駅内に響き渡り、その日の駅はいつもよりも活気があるようでした。



それに魅せられたのか、スーツ姿のおじさん何人かが小銭を募金しているのが見えました。



なんだ。良い話じゃないか。
募金活動をしている中学生はいたって真面目だったし、そんな中学生が遠い県の人たちのために行動するなんて喜ばしいことじゃないか。






なんて一ミリも僕は思いませんでした。
僕が感じたのは、ただただ嫌悪感でした。
ちょーキモい!!死ね!!



僕がいらだった原因は朝からうるさいだの、邪魔だのということではありません。

要因をまとめると、『先生が生徒に対して募金活動をするよう強制しているということ。』と『募金活動をする人たちの善意という名の暴力』の2点が挙げられます。



そもそも募金含めボランティア活動は、やる人たちの意識が前提として始まることじゃん!!



それを先生が主導して生徒にボランティアを強制させるってところが本当に気持ち悪い!!


考え始めると、学校が課外活動としてどっかにアピールするためのパフォーマンスなような気もしてくる。死ね。




しかもこの募金活動というのは少し特殊。



現地に行くとか、"自分"が募金する、とかのボランティアではなく、他人に募金することを要求するボランティア。


募金活動においては、本当にボランティアをしているのは募金をする通行人であって、決してそれを回収する側ではないわけでしょ!?



そのくせ募金箱持って立っている人たちは、『僕たちちゃんと日本のこと考えてます!日本のために頑張ってます!』みたいな顔して立ってるのが許せない!!死ね!!



お前らがやらなくても、日本赤十字があるし、コンビニやらマックやらにも募金箱はあって、募金ができる環境は整ってるわ!!


そしてそういう人たちに限って、募金をせずに通り過ぎていく人たちを軽蔑しているんだよきっと。



優越感に浸んな!!
勝手に価値観押し付けんな!!

一銭も出さないお前らも、募金しない俺も変わんねえよ!!←



なんか最終的に僻みみたいになってきて、ブーメラン刺さりまくってる気がしなくもないのですが、これが僕の本音です。

そして悪意のない善人にこの文章が届いて、少しでも考えを変えてくれることをただただ願うばかりです。

本気で“例の18歳選挙権の副読本”読んでみた。

最近話題の“例のあの教科書”について

先日、とある青と白が表紙の謎の本が240万人に無料で配布されました。

そしてそれは、もちろん僕のところへもやってきました。

 

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これです。

 

総ページ数104ページ。

駅前で変な宗教団体が配ってそうな感じ漂うこの冊子は、選挙権を新たに得る高校生の主権者教育を目的として文科省総務省が作成したものだそう。

 

僕の学校ではこれが配布された日に学年集会が開かれ、社会科の先生による選挙についての講演があったわけなのですが、すんごいざわついてました。今までにないくらいのざわざわ・ぺちゃくちゃ具合。

 

この日の集会には一生懸命語っていらっしゃる先生を、奇怪そうな目で見つめているやつや、「将来この国がどうなろうが俺は全く興味がない!」と豪語するやつなど様々。

副読本じゃなく単語帳を手に取り、勉強しているやつもちらほらおりました。

 

このときの僕は、校外で自主的に政治教育のボランティアをしているんですからさぞかし熱心に先生のお話を聞いていたんでしょうねえ?、と言われるかもしれませんが、

 

ガンガン隣の友達と私語してました。

先生すみません。雰囲気に負けてしまいました。

 

 

 

しかし!

僕の優秀なところ()は、あらためて今からこの教材を大真面目に読もうとしているというところなのです!!

 

皆がそっぽを向いて、読むことから逃げ出したこの鉄壁の本を読むという、チャレンジングなことを今から僕はしようとしているのです。。。

 

この僕の危険なアドベンチャーから何か学ぶものがありましたら幸いです。

 

それでは。

 

恐怖の入り口 ~「初めに」という名のモンスター~

目次の次をめくったページがこちら。

 

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長すぎる…文科省の役人さんたちの思いが強すぎる…

多くの高校生はこの「はじめに」で、大人と自分たちのテンションの差を思い知らされます。

 

そしてその内容は…?

今まで受け継がれてきた蓄積や先人の取り組みや知恵といったものを踏まえ、自分たちが暮らしている地域の在り方や日本・世界について調べ、考え、話し合うことによって、国家・社会の形成者として現在から未来を担っていくという公共の精神をはぐくみ、行動につなげていくことを目的としたものです。

ー本書の願いは、ー より抜粋

 

 

これは 話が壮大過ぎてついていけない…!

 

いや!やり始めたRPGのプロローグなら許せる!だって、自分が進んでいく未来には平和を脅かす魔王の存在とともに、自分がそれを華々しく華麗に倒し世界的な英雄になれる、というのが見えてるから!!

 

国家の形成者とか言われたら、すんげえ喜んじゃう!!

 

でも現実世界では、結局はかみっぺら一枚に何を書くかってことに過ぎないわけですよね(現段階では)。

投票って一票じゃ力も弱いし、なんてった地味。

 

「俺が投票に行こうが行かまいが、この国に何ら変化はない!!」という意見が大半である以上、この表現を使うには無理があると思います。

 

“若者の政治への意識”について大人はどう受け止めたのか?

ちなみにこのような若者の意識についても、記述があります。

ある調査によると「私個人の力では、政府の決定に影響を与えられない 」という考え方について、日本の高校生の80.7%が「全くそう思う」もしくは「そう思う」と答えています。この調査は韓国(55.2%)、中国(43.8%)、米国(42.9%)の回答と比べ、高い割合となっています。

ーもうひとつ、質問です。ー より抜粋

 

なるほど。政治のお上意識については、しっかり統計が取られて根拠はしっかりとしているようだ。

さてこれに関して、文科省はどう答えているかというと

 

この問い(「社会や政治問題への参加についてどう思うか」)について 「参加すべきだ」「参加したほうが良い」と答えた高校生は72.2%います。この割合は他国と比べてもそれほど低くはありません。

 

(中略)

 

日本の7割を超える高校生が「社会や政治問題へ参加すべきだ・参加したほうが良い」と考えている中、今回の選挙権年齢の満18歳以上の引き下げにより、そのような皆さんの思いと制度が近づいたといえます。

 

 こうきました。このパーセンテージは見てみて少し驚きました。

こういうデータがあるなら、選挙権引き下げもおかしくはないと思われます。

 

でもね…。

ここは僕の推論になってしまうのですが、こういう「社会に参加すべきだ」とか「今の政治について知っているべきである」とかっていう意見は、現実逃避していた問題に突然ぶつけられたときにおこる “心配” からくるものだと思うんです。

 

 

たとえば英語。

ついこの前まで普通にわかっていたはずの授業が、最近になって全然わからなくなってきた!!まずい!先生の言ってる意味が分からない!どうしよう!

でも、友達も最近英語難しいよねって言ってたし、大丈夫だよね。まあいつかは理解できるようになるでしょ!!

という感じ。

 

 

 

 

 

政治参加についてもそう。

ニュースでよく聞く「TPP」って何が問題なのか全然わかんない。すんごい日本は荒れてて、なんかいろんな人たちが怒ったり、叫んだりしているらしいけれど、なんでなのかしら。

まあでもいずれ大人になって働くようになったらわかるんだろうな。大丈夫でしょ。

 

 

つまり!!

僕らは今知っといたほうがいいとはわかってるけれど、時間が解決してくれると思って、問題理解を先延ばしにして妥協してるってこと。

社会・政治参加についてもそう。

何かしらやったほうがいいとは思うけれども、別に自分が動いたところで何も変わらないし、いずれだれかセンスのある人が問題を解決してくれるんだろうなあ、と人任せにしてるということ。

 

要は僕らは「社会・政治活動はしたほうがいい」と思ってるけど、「自分の力が政府の決定を変えるとは思わない」から、誰かに問題を解決してるのをただ待ってるだけという状態なんです。

 

そんな僕らに、一発目で

『君たちは国家・社会の形成者です!!!』

『あるべき自分の姿を探求し、社会参画につなげていってください!!』

とか言われても、僕らはポカーンとしてしまうんです。

 

張り巡らされたバリケード ~選挙活動の禁止~

100ページ超の本のくせに最初の2ページに思わぬ苦戦を強いられました。

良くも悪くも中身が濃いものになっていそうです!!期待と恐怖を抱きながらページを進めます。

 

さて僕が次に気になったのは12.13ページ。

 

 

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どどーんとイラスト!そして大きなバッテン!!

 なんか怖い!!絵柄も変だし!!

 

てかここのページだけおかしい!!

大体のページはグラフやら表やらでぎっしり解説のくせに、ここだけ交通標識みたい!!

 

クマ出没注意!

に近い!!

 

ここまで強調する必要あるのか!?!?

(参考までにこの本の大部分はこんな感じ↓)

 

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こういう大きいバッテンとかって結構イメージに与える影響大きいと思うんです。

あたかもチラシ配りをする人が間違ってる・気持ち悪いみたいな印象を与えかねません。(実際学校でチラシ配ってる奴いたらドン引きするけども)

 

 印象として、投票に入ってほしいけれど、がつがつとした政治活動はしないでほしい!みたいなものを感じました。

 

確かにそれが妥当なんだけれど、海外に合わせたという理由があるのならば、スウェーデンやアメリカなどの先進的な政治教育も取り込もうとはしてくれないのかね…?

 

生徒会への期待感

最後の『参考編』にてこんな記述が。

 

Q 若者の投票率が低いので、生徒会で選挙に関心を持ってもらうための啓発活動を校内で実施しようと思います。注意する点を教えてください。 

 

へえー、とちょっと驚きました。

自分も高校で生徒会執行部に所属していますが、政治やらニュースやら、ひいては世界史の授業を面白いと感じるようになったきっかけの一つになっています。

そして現在では「全国高校生徒会大会」をはじめとして、全国的に生徒会活動が活発化してきているように感じます。ここから始まる政治教育というものの形がどのようになていくのかは、かなり面白そうです。

 

最後に

さんざんいろんなことに難癖をつけてきましたが、僕としては非常に勉強になる内容でした。とくにQ&A欄が面白い内容で、「野球部の練習の帰りに投票行きたいのですが、金属バットは持ち込み禁止でしょうか?」などユニークなものが多かったです。

全体として高校生の読む気をそぐような書き方・構成になっていますが、我慢して読んでるとだんだん慣れてきます。

 

一回自分の目で読み、投票について考えてみることをお勧めします。

僕と憂国

今日はまじめな話を。

 

さしあたりこのブログを始めるにあたって、ブログの名前を付けなければいけませんでした。

 

かなり悩みました。こういうのは書いていく記事の方向性とか僕のイメージとか人格にもかかわって来る大事なもの。自分の子供のことだと思って考えました。

 

そしてつけたのが「高校生と武士道」という名前です。

 

僕は高校一年生の時に三島由紀夫金閣寺と出会い、そこから彼の思想にのめりこんでいきました。難解な理論と擬古文的な口調から語られていく物語に、僕は感動すら覚えました。

 

また彼自身の生き方についても同じことを感じます。

1970年11月25日。三島由紀夫が市谷駐屯地(今でいう自衛隊基地)での演説と割腹自殺が起きます。YouTubeでこの演説を聞いた時の衝撃は言葉にできません。

(↓これです。ぜひご覧いただきたいです)

 


三島由紀夫 - 檄

 

そんなこんなで僕は三島由紀夫を心から尊敬しております。

 

 

 憂うということ

 

僕は高校生になってから、いろんな活動をしていろんなことを知って、いろんなことを考えて来ました。

 

そしてそんな生活の中でふと思うことがあります。

 

『人間が誕生して何千年何万年とたっているのに、なんでこんなにも社会で生きていくのは依然としてつらいのだろう。』

 

「社会はそんな甘くないぞ!」

「簡単に普通の暮らしができると思うか!?」

「そんなことで食べていけるわけないだろ!!」

 

僕は小さいころから周囲の人からこういうことを言われ続けてきました。

小学生の頃には、将来の夢は?と聞かれたらお笑い芸人と言うよりも弁護士という方が喜ばれるということを理解するようになりました。 「いかに安定してお金を稼ぐか。」が基準に物事が語られる世の中を理解していました。

 

でもずっと心の奥では「なんでこの人たちはそんなにつらいのに生きようと思うのだろうか。」という疑問を抱いていました。

 

医療技術の進歩によって僕らは80年間ものあいだ生かされ、社会に出たら社畜・ソルジャーとして血反吐を吐きながら働き、えぐいぐらいの税金を国に納めることで社会の歯車を回し、最後には糖尿病で死ぬ。

なんか想像できちゃうんですよね。自分のこれからが。病院で迎える自分の最期が。

 

なんでそんなつらいいばらの道を歩かなければいけないの?

みんなも一緒だから?みんなと一緒に傷をなめあえれば平気なの?

 

 

なんか変じゃね?

 

 

そしてそれはいつしか『自殺』というものを正当化する理屈の一つになっていました。

 

「つらいなら楽になっちゃえばいいじゃん。」

 

ああ。なんて単純な論理なんだろう。

 

でも僕にはそれができません。僕はなんでか知らないけど『死』というものに人一倍敏感なところがあるのです。

学校の授業中に、なんかのトラブルでなってしまった火災報知機にガチでビビり、いざという時のために走る体勢を整え、校舎を出るまでのルートを頭でイメージしていました。

 

本当に怖かった。

まだ死にたくないと思った。

 

社会で生きていくために必要な辛さに耐える身心もなければ、そこからドロップアウトするための勇気もない。

とことん僕は弱い人間だなと感じます。

 

 

よくこういうことを考えます。

 

まったく同じ順序をたどりながら、ひとりでこんなことをぼーっと考えることがよくあります。

そして毎回この「僕は弱い人間だなあ」というところで夜ご飯が出てきたり、友達とのたわいもない会話が思い出されたりします。

 

そういう時に限って夜ごはんのかつ丼が妙においしいなあと感じたり、友達のギャグがじわじわきて一人で笑ってしまったりするのです。

横にいる弟の姿がこのうえなく大事なもののように思え、面白い友達を持てたことに幸せを感じます。

 

僕はそんなちいさなちっぽけな幸せのおかげで今日も生きていけてます。

(なんかメンヘラっぽくなってきてしまった。)

 

 

僕は三島じゃないし、三島は僕じゃない。

 

三島は素晴らしい小説を書いた。「現代小説は古典足りうるか」という問いに自ら答えを出した。そしてこの国を憂い、最後には自ら命を絶った。

 

じゃあ僕はこれからどんな風に生きようか。どんな道を選ぼうか。どんな未来を創造しようか。どんな最期を選ぼうか。

 

このブログはそんな、「僕の歩く道を選ぶ」ことをテーマに記事を作っていきます。

 

よろしくお願いします。

AVに学ぶエンターテイメント

この前見た面白いAVについて。

この前面白いアダルトビデオを見ました。

 

内容は割と普通なのですが、バイノーラル録音という人の両耳にレコーダーを付けることで、音のしたところが360度の方向から聞こえてきて、よりリアルなサウンドになるというもので録音するというAVでした。

 

ほぉ。おもしろい。

 

前からバイノーラル録音の存在は知ってました。

僕の好きなサカナクションというバンドが音源作成の時に使用している、というのを音楽雑誌で読んでました。

 

 

なので、音楽を作るためのものが、エロスのために使われるというのはかなりの衝撃でした。

 

 

これが逆転の発想だ!!!

 

この監督は天才だ!!!

 

 

そんなことを考えながら、ウッキウキで再生ボタンを押しました。

 

しかしながら実際のものは想像と違いました。

 

 

僕はてっきり男優さんがそのレコーダーを付けて、カメラも主観で捉えることで、見ている人がセックスを疑似体験できる、みたいなものだと思ってました。

 

 

しかし実際はレコーダーは男優、カメラは三人称というよくわからないことが起きていました。

 

 

あれあれ!?

 

女優が画面左にいるくせに、音は真正面から!!

 

 

おいおい!感覚バグるバグる!!

 

 

 

これにはかなり笑いました。

ガッカリというかは一種のギャグっぽさを感じました。

 

企画物のAVがもつ独自のエンターテインメント 

 

 

これに限らず、最近のAVというのはなかなか面白くて『時間が止まるシリーズ』とか『透明人間シリーズ』とかの王道から、『チ○コが飛び出す〇〇シリーズ』とか『マジックミラー号シリーズ』など、様々な内容があります。

 

 

人の性欲というのはなかなか面白いもので、十人十色のフェティシズムがあります。

 

それに比例して、AVというものもそういったニーズに応えるために領域を拡大してきました。

そしてその進歩は、他のジャンルの文化や他の国の文化にはないものだと思います(勘です)。

 

しかしながら、AVはアングラの代名詞のようなもので、あまり日の目を浴びることはないように思います。

 

今こそ独自の進化を遂げてきたAVのエンターテイメント性に着目することも大事なことなんじゃないかなと考え、『性欲を満たす、という本義から離れて見るAVの重要性』ということを訴えます。

 

 

 

 

長文読んでくださり、ありがとうございました。