高校生と武士道

イメージの言語化を図ります。

セックスがしたくて仕方がない。

 

「生きるのがアホらしい。」と思えた夏。

どうも。

受験生の僕です。

タイトルから、こいつついに恥じらいとか捨てたんだなと 思った方。少し僕の話を聞いてください。真面目な話なのです。

まずは最近のことから。

 

夏が終わりました。

暑かった。

僕と言えば、なかなか勉強は手につかず、やたら本や音楽を聴く毎日を過ごし、挙句の果てに夏最後の模試で、2か月前とほぼ同じ点数を取るという失態を犯し、塾長から「夏はお楽しみでしたね。」と皮肉を言われる始末です。

 

たぶん人生で一番本を読んだ時期だったと思います。小説やら新書やらに加えて、詩にも手を出し始めて、今は萩原朔太郎を読んでいます。

 

そして、塾で仲の良い友達と、塾から抜け出して近くの公園で本を読みながらいろんなことを話しました。教育がどうとか、オウム真理教がどうとか、最近の若者は甘いとか。最終的には僕の心理カウンセリングまでしてもらいました。彼曰く僕は「自意識過剰」なんだそうで。

  

そういう日々を過ごしていたので、ある意味夏が終わるまでの時間を消化していた、ように思えます。自分が死刑執行を待つ受刑者のようだったと思えます。

アホらしかった。毎日がアホらしかった。

今も思います。

ああ。僕はなんてアホらしい日々をすごしているのだろう、と。

 

そんな僕が唯一望むこと 

僕がセックスを望むのは、決して性欲を満たしたいとか、周りに対して優越感を抱きたいとか、そういう理由じゃないんです。もっと切実な意味で、僕はセックスを切望しているんです。

 『セックスができたら、自分の人生が何か変わるんじゃないか。』って。そういう類の願望です。

 

少し補足します。これだと自分があたかも、留学やヒッチハイクフリーハグやらを『人生変わるから!』とやたら周りに勧める人みたいなので。 

 

長い時間の中で僕は変化し続けている。

身長が伸びた。

電車に乗れるようになった。

難しくて何を言っているかさっぱりだった本が、手に取るようにわかるようになった。

人の気持ちに敏感になった。

 

この夏もそうでした。

そういった変化は僕に新鮮な驚きと喜びを与えます。しかしその驚きは時間の流れとともに風化し、日常というものに取り込まれてしまいます。

 

そして最近は、僕を取り巻く変化にすら僕は慣れてしまったように感じます。淡々と過ぎる日常と、変わっていく僕と、それに自覚的な僕。そしてそれがこれからも続いていくという予測可能性。こうなってくると非日常というのは不可能なんじゃないかとまで思えます。

僕にとってはフリーハグも募金活動も留学も、日常に飲み込まれる要素の一つに過ぎないんです。感覚的にですが、そう思うのです。

 

そういう僕の日常に唯一風穴を開けてくれるであろう存在が、セックスだと僕は考えるのです。

 

僕はセックスについてだけ、自分との関係性が予測できないのです。自分が将来どんな人と特別な関係を構築する様になり、どの様な文脈で行為に至るのか。その時僕はどんなことを考えるのか。その時相手はどんなことを考えているのかを僕はどの様に考えるのか。そして、セックスを終えた僕がどの様に世界を見る様になるのか。

全く想像できない。

驚くほどにセックスは僕の予測可能性の外へ逸脱した存在だったのです。僕がセックスがいかなるものかを知っているのにも関わらず、なのです(僕が知っているそれと実際のそれとは全く別物なんだよ、と言われたらそれまでなのですが)。

 

だから、そんな非日常を僕は誰よりも求めているのです。

話せば話すほど、逆に相手のことが分からなくなっていく様な、そんな暗中模索を迫られる人間関係から這いずり出し、

頭の先からつま先まで相手のことを理解しようとする意志の衝突に至った時、僕は初めて生を実感できるのだと想像します。

 

僕は高校時代、(セックスを除いて)たくさんのことに打ち込んできた方だと思います。部活やら生徒会やら、社会活動やら、いろいろやりました。確かにそれらは僕を熱くさせ、かけがえのない感動を引き起こしました。

 しかしその時にも、僕はどこか冷めきっている僕を発見するのです。そうじゃない、僕が本当に望んでいることはそういうことじゃない、と。

 

 僕が本当に望んでいたのは、早いスマッシュを打つことでも、生徒と生徒会の距離を縮めることでも、ましてや若者の政治的関心を高めることでもなく、

ただ単純に誰かを理解し、誰かに理解されたいということなんじゃないか。

 そういう結論に至りました。今になって、どうやら僕が非日常を求める方向性が間違っていた様です。

 

過去のことはさておき、つまり今の僕にとってセックスを求めることは、生きることを切実に求めることと同義なのです。

日常から僕を解放し、この世に他に存在しないほどの生の実感を僕に与える、そんなセックスを僕は希求する。

 

こんなのは童貞が作り上げた虚妄に過ぎないだろうか。

 

ただ、僕はセックスがしたくてたまらなかった。